買い物依存症。でもミニマリストになりたい。

買い物依存、ミニマリスト、相反する要素を包括、葛藤を綴るブログです。 買いたい。 でも貯金したい。 持ちたい。 でも増やしたくない。 そして、雨後の竹の子のように数多存在するミニマリスト本、お片づけ本、捨て本、シンプル本、そんな本を読んだ場合の感想など。 その他もろもろ。 どうなっていくかわからないブログですが、よろしくお願いいたします。

カポーティ『感謝祭のお客』再び物欲鎮火! 慎ましく生活をすることの豊かさ。

本日のコーデ。


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カーディガン 無印

タンクトップ 無印

スカート 無印

バッグ エルメス

スニーカー アディダス

 

カポーティの『感謝祭のお客』

ものすごく好きで、

川本三郎訳と村上春樹訳両方読みました。

村上春樹の訳って他の本はすごく好きなのですが

この本に関して言えば、

川本三郎の方が好きです。

物語の空気感や人物の性格に

とても合っているように思います。

 

内容はざっくり言うと

1930年代のアメリカ・アラバマが舞台

カポーティの幼少期がモデルとなっています

大人の都合で両親と離れ、

1人遠い親戚に預けられている

主人公の僕(カポーティ・小学二年生)と

その親戚の一族であり、一緒に暮している

ミス・スック(老女)の

心の交流の物語です。

 

ミス・スックというのは

小さい頃病気で学校にあまり行かなかったので

読み書きもおぼつかない。

”内気なシダのように恥ずかしかり屋で

郡境から向こうに一度も旅したことがない

世捨て人のような人間”で、

外出もほとんどしない。

家事をしたり、飼い犬のクウィーニーと過ごす毎日。

子供の頃から時が止まったような

純粋な感性の持ち主で、

”僕”のことを”バディ”と呼び、

大親友になります。

 

僕が学校から帰ってくると

ミス・スックとクウィーニーは

今日1日の出来事を聞いてくれます。

時には習ったことを一緒に勉強したり

”家の人”からたまにもらう”報酬”を

二人で一年間コツコツ貯めて

ケーキの材料を一緒に買いに行ったり、

焼きあがったケーキを

クリスマスにいろんな人に届けに行ったり。

 

ミス・スックは”僕”のことが大好きだから

自分のような老女だけが友達、

という状況は僕のためにならない、

同年代の友達を作って欲しい、

と考えて、僕のクラスの同級生である、

オッド・ヘンダーソンを感謝祭に

招待することにします。

 

しかしオッドという少年は、僕によると

父親は密造酒作りでいつも刑務所に入っており、

”隙あらば他人を酷い目にあわせてやろうと

いつも考えている”稀に見る悪餓鬼で、

僕はオッドに度々いじめられており、

夜中にうなされるほど嫌いだったので大反対。

全幅の信頼を置いているミス・スックに失望します。

ミス・スックはそれでも

オッドとも仲良くしてほしいことを伝え、

感謝祭に招待するために、

意を決してオッドの母親であるモリーを訪ね、

帰宅してから僕に言います。

ここから先の流れは

私の言葉で損なうのがもったいなく

とても素晴らしいので

以下抜粋します。

 

「あの人が好きよ」彼女は、きっぱりといった。「昔からモリー・ヘンダーソンのことは好きだった。あの人は出来る限りのことをしているわ。家のなかは、ボブ・スペンサーの指の爪みたいに清潔だった」。ボブ・スペンサーというのは、バプティスト派の牧師で、衛生上の配慮から爪を綺麗にしているので有名だった。「でも家のなかは、とても寒いの。トタン屋根だし、風が部屋に吹き込んでくるし。それに暖炉にはまったく火の気がないの。彼女は私に飲みものをすすめてくれたわ。私はコーヒーが飲みたかったけれど、いらないといったの。だってあの家にコーヒーがあるとは思えなかったもの。砂糖も」

「私、自分がとても恥ずかしくなったの、バディ。モリーのような人が苦しんでいるのを見ると、身体じゅうが痛むの。あの人には、晴れた日なんて一日もないわ。私はなにも、人間は誰でも欲しいものを全て得られるべきだっていっているんじゃないのよ。でも、よく考えると、それがどうして悪いことなのかわからなくなるのも事実よ。あなたが自転車をもらうのは当然だと思うし、クウィーニーだって、毎日、牛の骨をもらってもいいでしょ? そう、わかってきたわ、わかったわ。私たちはみんな欲しいものは何でも得られて当然なのよ。それが神の御意志だって、賭けてもいいわ。だから私たちの周りには、とても質素な必要品でさえ満足に得られない人がいるってわかると、私は自分が恥ずかしくなるんだわ。いえ、私のことなんかどうでもいいの。だって私なんかどうせ、貧乏な年寄りでしかないでしょ。私のためにお金を払ってくれる家族がいなかったら、いまごろ飢え死にしているか、郡の施設に送られているかね。私が恥ずかしいと思うのは、何も持っていない人が他にたくさんいるのに私たちは余分なものを持っている、そのことなの」

「私、モリーに、家には使い切れない余分なキルトの布団があるっていったの——屋根裏のトランクにキルトの端切れがたくさんあるって。私が、子どものころ、あまり外に出られなかったので作ったものよ。でも彼女、私に最後まで話させずにいったわ。ヘンダーソン家の人間はきちんとやっています、お気持ちは感謝します、ただ私たちが願っているのは、あの人が自由になって、家族のところに戻ってきてくれることだけです、って。『ミス・スック』って彼女はいったわ。『ダッドは、他のことはどうあれ、いい夫です』。彼女ひとりで子供たちの面倒を見なければならないというのに」

「それにね、バディ、あなた、あのオッドという子供のことでは間違っているわ。少なくともある点ではね。モリーによると、あの子はよく彼女の手伝いをするし、慰めにもなっているそうよ。用事をたくさんいいつけても決して文句はいわないし、歌も上手くて、ラジオに出ているみたいだって。それに弟たちが喧嘩をはじめると、あの子が歌を歌って静かにさせるのよ。だからね」、体温計を取り出しながら彼女は困ったような声でいった。「モリーのような人たちに私たちが出来ることは、敬意を払って、お祈りの中にあの人たちのことを忘れないことよ」

 

 

 ミス・スックだって決して裕福なわけではありません。

自由になるお金は基本的にはないし、

服装はいつも、キャラコのドレスに

叔父さんのお下がりのセーター、

擦り切れたテニスシューズ。

オッドの家に訪ねて行った時のよそ行きには

古びた造花がついた帽子をかぶり、

感謝祭当日は、姉から借りた

葬式用のネイビーブルーのドレス。

 

もちろん時代もあると思います。

実際、作者のカポーティ

当時としては自分は恵まれた環境にあったと語っています。

小学校には靴が買えなくて真冬も裸足、

という子も珍しくなかったそうです。

日本と同じように貧しい時代というのがあったのですね。

 

ミス・スックのセリフの中の

『自分が恥ずかしい』

という部分が、

私は特に共感していて好きな部分です。

同情とはまた別の気持ちです。

『みんなが欲しいものを得られていいはず』

という部分はハッとします。

どんなことも、望むこと自体は

贅沢や悪いことではないんですね。

それは自然で純粋な気持ちです。

 

ただ当然ながら、みんながみんな

望む通りにはならないものです。

”あなたが自転車をもらうのは当然だと思うし”と

ミス・スックは言っていますが、

他の部分で出てくるのですが、

実際の僕は自転車を持っていなくて

欲しくてたまらないのが現実です。

しかし必要なものすら得られない人がいる。

でもその時にどうするのか?

人に対して自分はどうあるべきか。

そのような心持ちを、ミス・スックはよくわかっている。

字は読めなくても聡明な人です。

 

ミス・スックのセリフでもう一つ好きな部分があります。

感謝祭の食堂を飾るテーブルクロスは

ミス・スックの母親が結婚の贈り物としてもらったもので

80年間使っている麻のクロスです。

繕った後や変色したシミの跡がはっきりとあります。

ミス・スックは、まるでそれが天国の織機で、黄金の手によって織られたものであるかのように扱っていた。「母は言ったものよ。『いつか、井戸水と冷たいトウモロコシパンしか食卓に出せない時が来るかもしれない。そんなときでも私たちにはちゃんとした麻の食卓があるのよ』」

どんな姿になっても、大切なリネンなのです。

丁寧にアイロンをかけた様は、いまでも凛としている。

次々と新しいものに飛びつかず

質の良いものを大切に使い続けるということ。

食卓という、生活の基本、原点を大切に思うこと。

 

 

無駄な物欲が再燃した時は

いま持っているバッグや靴のお手入れをしながら

この話を読み返しています。