買い物依存症。でもミニマリストになりたい。

買い物依存、ミニマリスト、相反する要素を包括、葛藤を綴るブログです。 買いたい。 でも貯金したい。 持ちたい。 でも増やしたくない。 そして、雨後の竹の子のように数多存在するミニマリスト本、お片づけ本、捨て本、シンプル本、そんな本を読んだ場合の感想など。 その他もろもろ。 どうなっていくかわからないブログですが、よろしくお願いいたします。

自分に対する嫌悪感と圧倒的努力

私は大学時代に

かなり親しくしていた

友人に突然

絶交されたこと、

それまで順調だった

小説創作の

スランプに陥ったこと、

そのような

一人では

埋めようのない

寂しさを

紛らわすため

買い物に走り、

結果、買い物依存症

なりました。

 

今はそんな自分と

向き合い、

買い物では

決して自分の心は

満たされないということ、

誰かや

何かのせいにしても

何も解決しない、

と思えるようになり、

買い物を

控えるようになりました。

 

しかし

以前のように

小説が思ったように

書けない現実は

変わりません。

 

そして今

その現実から

目を背けて

買い物とは

別の行動で

補完しようとしている

自分がいることに

気づきました。

 

はじめは

買い物依存が治ればいいと

思っていました。

 

買い物さえしなければ、

元通りの自分に

戻れる、

問題は解決して、

少しは自分の幸せに

近づく、

そう思っていました。

 

ですが実際

買い物が収まった

今だからこそ

はっきり思うのは、

問題の根本を

直視して

対応しない限り、

何も変わらないし

解決もしない、

ということです。

 

気分転換と称して

友達と食事に行く、

散歩してカフェに行く、

髪型を変えてみる、

コスメを新しくする。

 

そんな自分の行動に

それって本当に

そうしたかったこと?

その行動で、

幸せに近づいた?

 

そんな気持ちで

いっぱいになり、

楽しい瞬間から

一転、

自分に対する

嫌悪感で

いっぱいになります。

 

誤解のないように

申し上げますと、

気分転換が

悪いと

言いたいわけでは

ありません。

 

友達と会えば

楽しく

得るものもあるし、

髪型やコスメを

変えて

リフレッシュ

するのもいいし、

カフェ巡りで

日常の時間を

じっくり味わい

自分と対峙するのも

有意義な

ことだと思います。

 

ただ、私の場合は

問題の根本に

背を向けて

逃げ回っている

状態なのです。

 

いくら気分転換、

と言い張っても

それは現実逃避にしか

なっていないと

気づきました。

 

最近は

お店で素敵なものを

見つけて手に取ったり

おしゃれなカフェの

前を通って

入ろうかな、

などと思うと

すぐに自分の中で

こういう声がします。

 

『それで、本当に

何かが変わると

思っている?』

 

『その時間・お金の

使い方は、

本当に自分のために

なっている?』

 

答えは自分が

いちばんよく

わかっているのです。

 

いいえ、

何も変わらない。

自分を変えられるのは、

自分だけ。

 

あらゆる可能性の中で

今私がすべきことは

それじゃないはずだ。

 

気分転換なんて、

やることをきちんと

やった人の特権。

 

何もしていない今、

気分転換なんて

おかしいよね?

いや、それ以前に

そもそも

今いちばん

やりたいことは、

気分転換じゃないよね?

 

そういう思いが

立ち登り、

私は手にとった

素敵なものを

静かに置き、

カフェを

通り過ぎます。

 

たとえ高収入になり、

幸せな家庭を持ち、

友人に恵まれ、

美貌と理想的なスタイルを

手に入れたとしても、

私の場合は

幸せではないのだと。

 

私の魂は

そこにはないのだ、と。

 

そういう一般的な

幸せでさえ、

思うような

小説を書いて、

賞の一つでも

とってみたい、

という大学時代からの

野望の前では

霞んでしまうのです。

 

それに対する

努力を今まで

どれだけしたのか?

本当に恥ずかしい限りです。

 

しかし今できることは

いちばんの

近道は何なのか、

というと、

とにかく単純で、

机に向かうことでした。

 

先日見城徹さんの

本を読みました。

幻冬社を興された方です。

 

率直に言うと、

根性論です。

しかし、経験、実践を

伴う根性論です。

古い。

全てには通用しない、

努力・根性では

どうにもならないこともある。

そんな感想もあるでしょう。

 

ただ、

『努力ではどうにもならない』

と言えるほどの

努力をしたこともない

私は、頭を鈍器で

殴られたような

気がしました。

 

圧倒的努力とは、
とても単純である。

人が寝ている時に寝ないってこと。
人が休んでいる時に休まないってこと。

そして、どこから手を付けていいかわからない
膨大なものに、手を付け、
最後までやり通すことだ。 

 

「運がよかった」は、
謙遜でのみ使うべきだ。
断じて他人をこう評するべきではない。

その言葉は思考を停止させ、
努力を放棄させ、成長を止めてしまう。

 

当時、名もない

編集者だった

見城さんは

超売れっ子の

石原慎太郎から

原稿をもらうべく、

本人の前で

太陽の季節

『処刑の部屋』

全文暗唱しようと

したそうです。

『わかった。もういい。

お前と仕事をするよ』と

とうとう言わせたのです。

 

僕は松本清張さんと仕事をすることはなかったが、もし原稿を頼みに行くのであれば、膨大な著作を全部読み切ってから出かけただろう。どの作品の話題になっても会話できるように、すべての作品を読み込んで入念に準備してから会談に臨むのは当然だ。
松本清張の本なんてあまりにも数が多すぎる。とてもすべては読めない」と愚痴を言っている暇があったら、すぐに1冊目から読み始めたほうがいいに決まっている。寝る間を惜しみ、食事する時間さえも惜しみ、朝から晩まで読書漬けになればいい。「もうダメだ」からが本当の努力である。
 圧倒的努力ができるかどうかは、要は心の問題なのだ。どんなに苦しくても仕事を途中で放り出さず、誰よりも自分に厳しく途方もない努力を重ねる。できるかできないかではなく、やるかやらないかの差が勝負を決するのだ。

 

書けなくても

まず机に向かおう。

ノートを開こう。

もう、逃げるのはやめよう。

 

最後に

数ある見城さんの

名言で好きな部分を

抜粋します。

君がなんとなく生きた今日は、昨日死んでいった人達がどうしても生きたかった明日だ。というアメリカ先住民の言葉がある。今日は死から最も遠い日で、時間がたてば死に少しずつ近づいていく。圧倒的な存在である死から現在を見れば、今自分がやるべきことが鮮明に見える。今この瞬間を熱狂して過ごし、熱狂の軌跡を刻んていくのだ。そして、積み上げた小石が山と聳え立った時、『俺の人生は幸せだった』と微笑んで死んでいくことができる。