買い物依存症。でもミニマリストになりたい。

買い物依存、ミニマリスト、相反する要素を包括、葛藤を綴るブログです。 買いたい。 でも貯金したい。 持ちたい。 でも増やしたくない。 そして、雨後の竹の子のように数多存在するミニマリスト本、お片づけ本、捨て本、シンプル本、そんな本を読んだ場合の感想など。 その他もろもろ。 どうなっていくかわからないブログですが、よろしくお願いいたします。

忘れるということ。

夏の終わりに、

実家の長崎に帰った時、

妹とディープツアーを

開催しました。

 

何がディープか

というと、

いわゆる

ハウステンボス

大浦天主堂や出島、

などの一般的な

名所ではなく、

 

日々生活していた中での

なじみ深い道、

何の名所でもないけど

個人的に

気になっている場所を、

「ここはツウじゃないと

まず来ないな」

「そうだね、

これはかなりの

地元民しか

通らないところだよね」

などと、勝手に

認定しつつ、

あてどなく

さまよう、というw

非常に非生産的な

コンセプトでした。

 

その中で、

小学校に行く時に

通っていた道を

たどってみよう、

ということに

なったのですが、

 

家から最短で着くための、

人様の庭の裏を通り、

時々おばさんに

見つかっては

叱られる、

というような

非合法の道。

 

目をつぶってでも

わかるくらい

体に染み付いた

道のはずが、

「あれ?

ここから、どこを

通るんだっけ?」

と、ウロウロ

するばかりで

思い出せなかったのです。

 

同じように、

学校の隣にある、

おじいさんがやっていた

子供相手の文房具屋。

何ていう店だっけ?

 

一年間だけ、

向かいの家に

いた女の子、

毎日一緒に遊んでたけど、

何ていう名前だっけ?

 

完全に忘れている、

ということ。

 

忘れている、

ということ自体も

忘れている、

ということ。

 

それを

はっきりと

思い知ったのでした。

 

その時は

思い出すまでもなく

知っていて

当然の常識だったことが

 

そういうことが、

どの時代にも

必ずあって、

そして、

知らないうちに、

初めから

なかったみないに

消えていくこと。

 

大学の頃、

このような

忘れる、という行為に

非常に怯えて、

日記をつけていたことが

あります。

 

人や物、出来事だけでなく、

自分の感情も。

その時、

こう思っていた、

ということを

書き留めなければ

私はきっと

忘れるだろう。

 

その日記は

今見返すと、

やはり、

こう書かれていました。

「多分10年後には、

もうこんな気持ちを

思い出せないだろうから、

未来の自分に

馬鹿にされても

いいから、

せめてここに

今の気持ちを書いておく」

 

一方で、

人は忘れることで

随分いろんなことから

救われていると

思うのですが。

 

妹とは、

これからは時々、

デイープツアーしようね、

と笑いあいました。